車に乗ったジャニーさんにスカウトされた


 大型連載第15回は、19歳だった1985年に少年隊のメンバーとして「仮面舞踏会」でデビューし、現在は俳優や司会、ナレーターとしてマルチに活躍する東山紀之(50)。ジャニーズ事務所の驚きの合宿所生活やジャニー喜多川社長(85)から受けた英才教育、ストイックに筋トレに励むきっかけとなった故松方弘樹さんの言葉、故森光子さんとの出会い…。トップアイドルとしてスターダムを駆け上がった二十歳のころの経験や出会いが、今の東山紀之を形成した。

 僕は15歳から23歳くらいまでの“二十歳のころ”を、ジャニーズの合宿所で生活した。

 事務所に入ったのは1979年、小学6年のとき。当時、母が東京・渋谷にあるNHKの職員用理髪店で働いていた。そこでもらった歌番組「レッツゴーヤング」の公開収録のチケットを握りしめ、友達を誘って地元の川崎から渋谷のNHKホールまで観に行ったんだ。

 帰り道、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていたら、車に乗った中年の男性から突然「どこから来たの?」と声をかけられた。それがジャニーさんだった。誘われたレッスンに通うようになり、川崎市内の中学を卒業後、東京の明大中野高に入学したことで親元を離れ、合宿所生活がスタートした。あのとき、(1) ジャニーさんとの出会いがなかったら、今の僕はない。

 ジャニーさんの自宅でもある合宿所があったのは原宿。当時は川崎麻世さん、トシちゃん(田原俊彦)、マッチさん(近藤真彦)、ニシキ(錦織一清)、植草(克秀)、後にシブがき隊としてデビューする布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英ら10人ほどが暮らしていた。

 合宿所はとにかく広かった。普通のとはわけが違う。高級マンションの6階が合宿所で、ちなみに4階は矢沢永吉さんの事務所だった。風呂2つにトイレは3つ、30畳ほどのリビングはレッスン用に鏡張り。イタリア製のソファもあった。

 先輩のトシちゃんとマッチさんの部屋は20畳くらいあった。僕は植草と2人で8畳の部屋を使っていた。食事が3食出て、掃除、洗濯はお手伝いさんがしてくれた。住居費や食費は全部、ジャニーさんが負担。自分のポケットマネーでやっていたわけだから、すごかったよね。

 暗黙のルールもあった。食堂の冷蔵庫のトシちゃんのコーヒー牛乳には「104(トシ)」と書かれ、手をつけてはいけないことになっていた。植草は、こっそり飲んでいたけれど。

 17、18歳のころは、バイクが好きなマッチさんのツーリングに、よく駆り出された。何かあってはいけないと事務所から1人での運転は止められていたから、マッチさんは同じバイク好きだった麻世さんを誘って、僕と植草も連れて行った。

 麻世さんの後ろが植草で、マッチさんの後ろが僕。季節はなぜか、冬が多かった。どこまで行ったかは覚えていないけれど、2、3時間は乗っていて、寒くて寒くて仕方がなかった。まだ、お金もなくて、僕はちょっとした上着に、手袋もなしに乗っていたから、今考えたら、拷問。僕はその時間にレッスンがしたいと思っていたから、本当は行きたくなかった(笑)。

 そんな合宿所の生活を経て、85年に19歳で少年隊として「仮面舞踏会」でデビューするんだけど、そこに至るまでにはジャニーさんの英才教育があった。


(2) 紅白の「仮面ライダー」がなかったら少年隊は覚えてもらえなかった


 米国、カナダ、英国…。(ジャニーズ事務所社長の)ジャニー(喜多川)さんには、1985年に19歳でデビューする前、いろいろなところへ連れて行ってもらった。

 ジャニーさんの方針は「とにかく見せる、経験させる」。3カ月に1度くらいのペースで海外に行かせてもらって、ブロードウェーのミュージカルを1週間見たり、レッスンを受けたりした。

 17歳のころ、ジャニーさんと少年隊の3人で、(マイケル・ジャクソンが所属していた兄弟グループ)ジャクソンズのコンサートを見るためだけに1泊3日でカナダ・モントリオールに行った。マイケル・ジャクソンの名曲「スリラー」の振付師だったマイケル・ピータースのダンスレッスンを米国で受けたこともあった。

 ジャニーズJr.のときから一流をたくさん体験させてもらった。本場を見ることでモチベーションは本当に高まった。今考えると、飛行機代を含めて、とんでもない金額だけれど、ジャニーさんが全て負担してくれた。英才教育を受けさせてもらったと思う。

 懸命に歌やダンスを磨く日々を過ごしていたけれど、焦りもあった。シブがき隊は、少年隊より3年半早い82年にデビュー。僕と植草(克秀)の1歳上のニシキ(錦織一清)はシブがき隊の3人と同い年だから、僕らよりも焦っていたと思う。いつかデビューできるという希望を持って僕らはレッスンに励んだ。

 85年夏に、待ち望んでいた瞬間が、ついに訪れた。事務所からデビューを告げられ、「やったな」と3人で握手した。グループ結成から4年。その年の12月12日に「仮面舞踏会」でデビューすることが決まったんだ。

 デビュー後は忙しくなり、睡眠時間は3、4時間になったけれど、苦痛ではなかった。当時は「これから僕らが世界を変えるんだ」と希望に燃えていたから、疲れをあまり感じなかった。

 忘れられないのは、日本レコード大賞に出て、NHK紅白歌合戦に初出場したデビュー2年目の86年大みそかだ。レコ大で僕らは出演時間が急きょ長くなったことを、手違いで知らされないまま本番に。予定なら曲の最後にバック転を決めて終わるはずが、音楽が鳴り続け、「どうした?」と思いながら、なんとかつなげようとバック転を繰り返した。

 それが悔しくて、紅白ではちゃんとやるぞと意気込んで臨んだ。ところが、トップバッターの僕らの曲紹介で白組キャプテンの加山雄三さんが、「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と言い間違えた。「えっ!?」と思いながら歌い踊るも、早着替えのタイミングよりも先に僕の衣装が脱げてしまって、紅白でも納得いくパフォーマンスができなかった。楽屋に戻ると責任を感じた衣装さんが号泣していて、僕も悔しくてもらい泣きした。

 そこにジャニーさんが来て「YOUたち、良かったね。一生言えるよ。最高じゃない。加山さんに感謝だよ!!」。僕はぽかんとしていたが、ジャニーさんのいう通り、翌日から「仮面ライダー」は話題になった。

 人間万事塞翁が馬。失敗は失敗とは限らない。「仮面ライダー」がなかったら少年隊の名前は覚えてもらえなかった。加山さんのおかげだし、ジャニーさんの発想の転換は衝撃的。思えば、僕の時代劇の師である松方弘樹さんとの出会いも二十歳のころだった。
 

【二十歳のころ 東山紀之(3)】「ストイックな方が僕らしい」腹筋1000回を日課に 

 

僕にとって時代劇の師である松方弘樹さん(故人)との出会いは、二十歳で撮影に臨んだ1987年のテレビ朝日系「新選組」だった。

 当時、ジャニーズで京都の撮影所に通ったタレントはおらず、僕も本格的な時代劇は初めて。不安の中、現場に入った。松方さんが主人公の近藤勇を演じ、僕は沖田総司役だった。

先に撮影していた松方さんの立ち回りを見学。雨のシーンで松方さん演じる近藤勇が傘を斬られ、傘の隙間から松方さんの姿がのぞく。まあ、カッコよかった。じっと見ていたら、松方さんが撮影後に僕のところに歩み寄り、「おまえが沖田か」と肩をバンバンとたたいてくださった。それが出会いだった。

「新選組」の放送終了後、電話番号を教えていないのに松方さんから電話がかかってきた。「今度『遠山の金さん』に出て、勉強せんか」。僕はすぐに「はい」と返事をして、松方さん主演の「遠山の金さん」(テレ朝、88年)に半年間、出させていただいた。

 松方さんには刀の差し方、帯の付け方、侍の走り方、あらゆる時代劇の基本を教えてもらった。毎晩、お酒の席にも連れていってもらい、豪快な飲み方も教わった。お酒が強くなったのは、このときのおかげだ。

松方さんは萬屋錦之介さんのことを「錦兄(きんにい)」と呼び、「あの作品を見ろ。あの場面の錦兄の表情を見ろ」などと教えてくれた。VTRを合宿所に持って帰って何度も見て勉強した。僕は1日腹筋1000回、月に100キロ走ることを30年続けているが、そのきっかけも松方さんの言葉だった。

 松方さんは「ヒ」が発音できなくて、僕を「ヒガシ」ではなく「シガシ」と呼び、「シガシ、おまえには不良性感度がない」と出会った当初からよくおっしゃっていた。
「おまえは何をやっても爽やかなイメージ。錦兄も勝(新太郎)さんも、ジェームズ・ディーンも、みんな悪っぽいだろ。俳優は不良性感度がないといけないんだ」

 そういわれてタバコを吸ってみたり、いろいろ試したけれど、どうしても悪っぽく見えない。自分でも違和感がある。だから、「究極にまじめになろう。ストイックな方が僕らしい」と思った。それで筋トレに励むようになった。

同時期に“病気”を患ったことも体を鍛える要因になった。少年隊でデビューして2年後の多忙だったころ。疲れとストレスのせいなのか、円形脱毛症に…。皮膚科に行ったら、「脳に血液が回るように腹筋をしなさい」といわれた。

 やってみると、1カ月後には治り、歌も声が出るようになるし、踊りのキレもよくなって悪いことが一切ない。やめられなくなった。今も欠かさず続け、大好きなマイケル・ジャクソンの曲を15分かける間に1000回やる。厳密に数えたわけではないが、腹をたたいてもらったり、ダンベルを使ったりして、負荷が1000回分に値するプログラムを組んでいる。

 ランニングも仕事帰りに家まで走ったりして、月に計100キロになるよう、ずっと続けている。松方さんの一言がなかったら、ストイックにならなかったかもしれない。

 そしてもう一人。表現者としての僕を形作ってくれた森光子さんとの出会いも、二十歳のころだった。

 

【二十歳のころ 東山紀之(4)】森光子さんから「私、あなたのファンなの」

 

 森光子さんとの初対面は少年隊がデビューした翌年の1986年、NHK紅白歌合戦に初出場したときだった。

 前から森さんが僕のファンだというのを人づてに聞いていたが、とても信じられなかった。“日本のお母さん”と呼ばれる大女優が、デビューしたてで弱冠二十歳の僕なんて…という思いだった。

 紅白の本番直前に僕がスタンバイしていると、審査員を務めていた森さんが僕のところに来てくれて、「私、あなたのファンなの」とおっしゃってくれた。それが出会いだった。

 紅白の後、別の歌番組に出演した際にも応援に来てくださるなど、森さんには愛情を注いでもらった。88年に大阪で上演した初主演舞台「沖田総司」も見に来てくれた。それも、台風で止まるかもしれない新幹線に乗って、わざわざ東京から足を運んでくださった。

 森さんは人と接するとき、年齢で分け隔てることなく、決して先輩面しなかった。敬意を表して、僕のことを「若旦那」「東山さん」と呼んでくれた。見習って僕も共演者は必ず、上の名前で呼ぶようにしている。

 93年に主演したNHK大河ドラマ「琉球の風」など何度もドラマや舞台で共演させてもらったが、技術は高度過ぎて盗めない。森さんからは人への接し方、姿勢を学んだ。

 二十歳のころには、今でも飲み仲間の俊ちゃんこと、バレーボール元日本代表の川合俊一さんにも出会った。

 僕の当時のマネジャーが俊ちゃんと知り合いで「気が合うだろうから」と俊ちゃんの所属チーム、富士フイルムの優勝パーティーに連れていかれ、そこで意気投合した。

 俊ちゃんはウイットに富んでいるし、品がよくて尊敬できる。ソウル五輪へ旅立つ前日、俳優の中井貴一さんの家でバレーボールをやったこともあった。週6日、一緒にいた時期があって、週刊誌に関係を噂されたことも。これっぽっちも“そんな気”はなかったけれど(笑)。

 僕は一度だけ、お酒でつぶれたことがある。22歳くらいのとき、当時よく一緒に遊んだプロ野球・西武の工藤公康投手(現ソフトバンク監督)の誕生日会を、僕の仕切りでやることになった。俳優の真田広之さん、西武の渡辺久信投手(現西武シニアディレクター)ら、すごいメンバーが集まった。

 気持ち悪くなってトイレから動けない僕を、俊ちゃんは抱えて合宿所まで連れて帰ってくれた。合宿所の前にはファンの人たちがいるため、近くまで来たら、まるで僕が起きているかのように、いっこく堂みたいにして合宿所に入れてくれた。僕は酔って記憶にないんだけれど…。俊ちゃんは一生、大事にしたい友だ。

 二十歳のころに森さんや松方弘樹さん、俊ちゃんら尊敬できる人たちと多く出会えた。今の「二十歳のころ」の人たちにも、知性と品格のある先輩、友人を持ってほしい。自分を引き上げてくれる人を。ただ、そういう人と出会える環境は自分で作らないといけないと思う。自分を過度に甘やかす人とは関係を切らないとダメ。その判断は自分でしないといけない。

 そのために、もっと新聞と本を読んで、自分も知識を高めて知性を磨いておくこと。僕は学歴はないけれど、学ぼうという意識は高かった。たくさん疑問に思って、行動してほしい。今後いろいろな局面で役に立つから。 (おわり)
 

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