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森光子と東山紀之の人気者の顔合わせで、帝国劇場はいっぱいだ。今までに何度もこのコンビでいくつかの作品を上演してきたが、その都度新鮮な感覚があったり、二人の愛情が感じられたりして、単なる話題提供だけではない作品もあった。だからこそ、今回までいろいろなテーマで続いてきたのだろう。今回の舞台は大正中期から昭和十六年までの間、森と東山が姉弟という設定である。アルゼンチンから流れてきた二人が神戸へ落ち着き、二人の人生が「タンゴ」をキーワードに交錯しながら進む…伊集院静の原作で、描こうとしている時代や発想の着眼点は面白い。しかし、芝居の内容については山のような疑問と不審な点がある。もしかすると、観客の大部分は気付かずにいることかも知れないが、実は今回の芝居には大きな問題が隠されている。

プログラムを見て驚いた。原作は伊集院静、となっており、栗山民也が演出に当たっている。ここまでは問題ない。しかし、脚本家の名前がどこを探しても見当たらないのである。伊集院静は小説家ではあっても劇作家ではない。となると、誰かがその原作を芝居に「脚色」するという作業がなければ芝居にはならない。当然、しかるべき劇作家が脚色しているわけだが、なぜそこに誰の名前もないのだろうか。誰も何もしないのに、自然に芝居の台本が出来上がるわけなどあるまい。

さらには、プログラムに書かれている「物語」と称する粗筋(観劇の手引きのようなもので、あらかじめストーリーを頭の中に叩き込んでおくには観客には重要なものである)と、実際の芝居の内容が大幅にずれている。推測で物を言うことはしたくないが、そう無謀な推測とも思えないから書く。恐らく、プログラムを印刷する時点までに出来上がっていた脚本の内容が大幅に修正されたために、こういう事態が起きたのだとしか考えられない。だから、責任の所在を明らかにすることができず、脚本家の名前が出なかったのだろう。いや、出せなかったのだ。こんな荒技を平気で使う感覚に驚いた。まるで詐欺に等しい。

長い歴史を持ち、幾多の名作を送り出して来た大興行会社の東宝ともあろうものが、こんないい加減な仕事をするとは、演劇人の端っこにいるものとして恥ずかしいを通り越して情けない。高いチケットを買って、お芝居を楽しみにわざわざ時間をかけて劇場へ足を運んでくださるお客様をどう思っているのだろうか。同時に、出演する役者に対してもこんな失礼な話はない。数々の名舞台で東宝の財産とも言える森光子、タイトなスケジュールの超売れっ子の東山紀之を組み合わせ、その脇には雛形あきこ、石田純一、野村昭子、山本學、中田喜子など、多彩なメンバーを並べている。しかし、こういう無責任な方法で芝居を創ったのでは、いかな名優であろうとも腕の奮いようがない。看板に名を並べている人々には当然それなりの責任も伴うが、そうではないすべての役者やスタッフが気の毒だし、彼らに失礼である。こんなみっともない真似をするのであれば、既存の作品の再演の方が遥かにましというものだ。

まるっきり土台のないようなところで芝居をしている上に、責任の所在が明確ではないから、誰に文句を言っていいやらわからない。この芝居のプロデューサーの人を馬鹿にした行為はまさに切腹物である。日本の観客がいくら大人しいとは言え、ここまで馬鹿にされたのであれば、「金を返せ」という権利はあるだろう。

二幕で二十場を超える場割りの多さ。あれもこれもというエピソードを無理矢理に押し込んだために、何だかテレビのようなカット割りの舞台になってしまった。せっかく面白い着眼点があるのだから、森と東山の姉弟の交錯する人生にどっかりとしたテーマを据えて、二人にがっぷり四つの芝居をさせればもっと面白いものができたであろうことは、素人でもわかる。そこにいろいろな人が絡めばよいのだ。ところが、主な役どころがみんな尻切れとんぼの上に、何だか手持ち無沙汰のような格好になってしまって、これではどうにもならない。最後まで観ていくと、しまいには何がテーマなのかも薄ぼんやりとしてしまう上に、いきなり時代や場面がポンと何の説明もなく飛んでしまうために、観客はその空白の期間に何があったのか、理解に苦しむ。こんな不親切な芝居もあるまい。

これではせっかくのビッグな顔合わせも、役者の生きようがないのが気の毒だ。森光子は相変わらずの若々しい魅力で見せるし、東山の爽やかさも変わらない。野村昭子はまさに手練れ、とも言うべき存在感を持っている。石田純一は良くも悪くも役の軽さが本人のイメージとダブるところはあるものの、さしてどうこうというわけではない。山本學も、役の設定は面白いのに芝居のしどころはない。中田喜子、雛形あきこも同様である。これでは、役者の演技云々を批評する以前の問題である。むしろ、こういう驚天動地のような状態の中で芝居をせざるを得ない、そしてその評価を受けなくてはならない役者に同情さえ覚える。

商業演劇の汚点が、もろに露呈した芝居である。興行会社の思惑に振り回された役者と観客が気の毒だ。帝国劇場という冠たる劇場が、外国から買って来たミュージカルしかできない劇場になってしまったことにただただ失望、の一言である。


http://www.yumekoubou.co.jp/Enpaku/review/review110.htm
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